授業を再定義せよ

僕の中学時代は、まさに暗黒時代。
学校を仮病で休みまくったことで、みるみるうちに成績が落ち込んでいき、気づけば”下から数えたほうが早い番数”まで順位が落ちていました。
そんなもんだから高校入試のときは、『公立高校なんてどこも受からないだろう』という思いで適当に出願。
そしてまさかの定員割れで合格してしまい、『このまま高校生になったらマズイ…、中学時代(暗黒時代)の二の舞いになる前になんとかしなきゃ!!』と焦って、そこから僕の”勉強法研究”の日々がスタートしました。
まぁ、僕の勉強法研究の成果は一旦置いてといて…。
高校入学早々に訪れた最大の壁
高校に入学して授業が始まると、いきなり最大の壁が現れました。
授業がまったく分からない。
ええ、そうです。
だてに3年間の暗黒時代(中学時代)を過ごしてきたわけじゃありません。
中学時代のストックがほとんど無い分、高校の授業で言っている内容が「これでもか!」というくらい理解できないんです。
勉強法研究を始めたは良いんですが、だからといって”授業に対する理解が進むようになる”というわけじゃありません。
『中学時代の二の舞いになってなるものか!というかむしろ、盛大に高校デビューしてやんよ!』
と、高校デビューに向けた僕の全力疾走は、『授業』という壁で早々に妨げられることとなったのです。
『授業』という壁を乗り越えるために
僕が通っていた学校の授業は1時限50分で、平均して毎日6限ありました。
単純計算、50分×6で約300分=5時間という時間を、”何を言っているのか分からない授業”に費やしていたんです。
真剣に聞いていても分からない。
分からないところを調べようとしても、調べた先がまた分からない。
授業に追いつけるように復習しようにも、学校からの課題が多すぎてまともに復習ができない。
で、その課題自体が授業の復習と予習だから、まったく進まない。
そんな状態で新しい範囲の授業を受ける毎日が続く。
当時の僕にとって、それはまさしく苦行でした。
もっとハッキリ言ってしまえば、授業時間は僕にとって”意味のない時間”だったわけです。
だから僕は決意しました。
真剣に聞いていてもさっぱり分からないから、
その時間を使って自分の勉強をしよう。
と。
いわゆる『内職』というやつです。
内職を始めて起こった変化
内職は僕の性格に合っていました。
普段勉強するのが嫌いな僕でも、授業中は特にやることがありませんから、どうしても目の前のことに集中しなくてはなりません。
内職をするまでは、集中すべきものが授業で苦痛な時間でした。
ですが内職を始めてからは、集中すべきものが”自分で選んだ、レベルの合った教材”になります。
“自分で選んだ、レベルの合った教材”ですから、何よりも自分で理解しながら進めることができます。
そういう教材であっても、学校以外で自分で勉強時間を作ってやろうとすると、どうしてもゲームとか漫画といった誘惑に負けてしまいます。
ところが授業中であれば、それしかやることがないわけですから、その教材に全力を注ぐことができたんですね。
すべての授業で、ひたすら”自分で選んだ、レベルの合った教材”を解き進めていました。
上述した通り、授業中に生まれる程よい集中力があったおかげで、面白いようにスイスイと教材を進めることができました。
そしてついに”その日”がやってきました。
受けていたのは数学の授業です。
その日はいつものように、数学の教科書の問題を黙々と解き進めていました。
(数学の教科書はよく出来ていて、例題を見ながらであれば、大抵の練習問題は解けます)
で、その日は珍しく、授業中に集中力がプツッと切れたんです。
『まぁ、こんな日もあるか』と軽く受け止めながらも、『たまには授業を聞いてみるか』と思って、久しぶりに授業を真剣に聞いてみたんですね。
すると不思議なことに気が付きました。
あれ…、この問題、
どっかで見たことあるなぁ…
って。
そうなんです。
その日授業でやっていた内容、実は数週間前に僕が内職でやっていた内容だったんです。
いつの間にか、自分で進めていた勉強が学校進度を追い越していたんです。
このことに気づいてからも、僕はひたすら内職をし続けました。
学校の授業よりも、自分のレベルに合った教材を、自分で読み進める方が分かりやすいし、圧倒的に早く進むからです。
特に数学と物理は、これが顕著に起こりました。
最終的に、数学と物理は学年1位を取ることができ、全教科合わせても学年10位台をキープできるようになっていました。
この状態になるまで、というか高校生活全体を通して、授業中はひたすら内職し続けました。
ちなみに家での勉強は、学校で出された宿題しかやっていません。
ですから親にはめっちゃ怒られていました(笑)
授業の意味って?
さて、そんな僕の高校生活を振り返ってみると、ある疑問にぶち当たります。
授業って何のためにあるの?
ってこと。
学校では、一人の先生が40人前後の生徒に向けて授業するわけですから、間違いなくその授業のレベルに合わない生徒が現れます。
『レベルが合わない』という以外にも、『教科書をただ写しているだけ、読んでいるだけ』という授業もあります。
もちろん、できる限りすべての生徒に理解してもらえるよう、常に創意工夫して授業の質に磨きをかける先生もいます。
ですが、そうでない先生が一定数いるのも事実。
理由はどうあれ、『本人にとって意味を感じることのできない授業』があるのも、また事実です。
正直、生徒本人にやる気があるのなら、授業を受けるよりも”自分で選んだ、レベルの合った教材”をやり込む方が、成績は圧倒的に伸びます。
最近だとプロの講師が教える動画授業も安価で、モノによっては無料で見れるようになってきます。
ですから“学力を上げるため”という理由であれば、授業という形にこだわる必要はないんです。
むしろ、授業という形にこだわらない方が、(本人のやる気があるという前提で)間違いなく学力は向上します。
じゃあ授業って何のためにあるんだ!?
今こそ授業を再定義する時
上でも触れたように、今はとっても分かりやすい教材が書店に溢れていますし、月額1000円前後でプロの映像授業を受け放題というサービスもあります。
また最近では、オンライン上で日頃の学習サポートを行うサービスも増えてきました。
教育業界は思ったよりも凄まじい進化を遂げているんです。
そんな今だからこそ、学校の授業を再定義する必要があると思います。
このまま教育業界が進化していけば、”先生が前に立って、生徒に直接指導する”という授業形態は、間違いなく消滅します。
実はすでに映像授業を、正式にカリキュラムに組み込んでいる学校もあるんです。
そりゃあ、『”科目を教えること”に磨きをかけたプロの授業が見放題。しかも安価』というサービスがあるんですからね。
“教えること以外の業務”に日々追われている学校の先生が、無理して授業をする必要もありません。
ましてや、そこで手抜きの授業をしようものなら、生徒の50分を無意味に奪い取ることになりますからね。
使えるものがあるんなら、使えばいい話です。
そんな中、学校の授業はどういった立場を取っていけば良いのか。
場合によっては、『学校の授業ってそもそも必要なのか』という部分に立ち返って、じっくりと議論していく必要があるんじゃないでしょうか。
そんなわけで、『学校の授業の再定義』というテーマで議論したいなぁ、と思っている津本でした。
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